Se connecter翌朝、私は社内報告用の資料を開いた。
結和ケア試験導入・初期反応報告。
そう打ったタイトルの下に、昨日の宮坂さんから聞いた内容を整理していく。
配食スタッフが気づきを残した。
訪問支援スタッフが事前に確認できた。
家族への連絡が一度で済んだ。
電話が一つ減った。
そこまで打って、指が止まる。
一つ。
数字だけ見れば、とても小さい。
けれど、その一つが現場では大事なのだと、宮坂さんは説明してくれた。
誰に伝えるべきか迷う時間が減った。
記録しても無駄ではないと思えた。
次も残してみようと思える入口になった。
私はその言葉を、できるだけ削らずに残すことにした。
報告書は短くするべきだ。
でも、短くしすぎて意味まで消してはいけない。
午前十時。
事業推進室の小さな会議室で、試験導入の初期報告が始まった
翌朝、私は社内報告用の資料を開いた。 結和ケア試験導入・初期反応報告。 そう打ったタイトルの下に、昨日の宮坂さんから聞いた内容を整理していく。 配食スタッフが気づきを残した。 訪問支援スタッフが事前に確認できた。 家族への連絡が一度で済んだ。 電話が一つ減った。 そこまで打って、指が止まる。 一つ。 数字だけ見れば、とても小さい。 けれど、その一つが現場では大事なのだと、宮坂さんは説明してくれた。 誰に伝えるべきか迷う時間が減った。 記録しても無駄ではないと思えた。 次も残してみようと思える入口になった。 私はその言葉を、できるだけ削らずに残すことにした。 報告書は短くするべきだ。 でも、短くしすぎて意味まで消してはいけない。 午前十時。 事業推進室の小さな会議室で、試験導入の初期報告が始まった。 出席者は、担当部門の上司と事業推進室の数名。 玲央さんはいない。 それでよかった。 ここで評価されるなら、玲央さんの前ではなく、この仕事を見ている人たちの前で評価されたい。「では、朝比奈さん。お願いします」「はい」 私は資料を開いた。「試験導入開始から一週間の初期反応について報告します。まず、現場向け確認カードは全員に定着している段階ではありません。連絡先の明記、職種別の記録例、家族連絡の確認欄について、改善要望が出ています」 最初に課題を出す。 良く見せるために、都合のいいところだけ並べたくなかった。「一方で、実際に連携が一件動いたケースがありました」 会議室の空気が少し変わる。 私は続けた。「配食スタッフが、利用者さんの受け答えが普段より曖昧だったことを記録しました。緊急対応ではありませんでしたが、訪問支援スタッフが訪問前にその記録を確認し、地域連携室へ状況
試験導入が始まって、一週間が過ぎた。 現場からの声は、まだ途切れない。 三行目の連絡先がまだ分かりにくい。 配食と訪問支援で、記録例を分けてほしい。 家族へ連絡済みかどうかを一目で見たい。 厳しい指摘もある。 けれど、最初の頃とは少し違っていた。 ただの拒否ではなく、使うための意見になっている。 そう思いたい。 そう思いながらも、私は毎日少しずつ不安だった。 本当に役に立っているのだろうか。 現場の手間を増やしているだけではないのだろうか。 そんなことを考えていた午後、宮坂さんから連絡が入った。『少しお時間ありますか。共有したいケースがあります』 私はすぐにオンライン打ち合わせを設定した。 画面に映った宮坂さんは、いつも通り落ち着いていた。 けれど、表情が少しだけ柔らかい。「朝比奈さん、昨日、一件だけですが、実際に助かったケースがありました」「助かった、ですか」「はい。配食のスタッフが、ある利用者さんのところで“いつもより受け答えが曖昧だった”と記録してくれたんです。食事は受け取られたので、緊急対応というほどではありませんでした。ただ、三行カードの通りに、対応したことを一つだけ残してくれました」 私は息を詰めた。 画面の向こうで、宮坂さんは資料を確認しながら続ける。「以前なら、配食側は気になっても、どこまで連絡するべきか迷ったと思います。急ぎではない。でも、何となくいつもと違う。そういう時は、結局その人の判断に任されがちでした」「はい」「今回は、その記録を訪問支援のスタッフが先に見られました。訪問前に地域連携室へ一度確認して、前回の様子と照らし合わせてから入れたんです」「それで、何か問題が?」「大きな問題ではありませんでした。少し体調が悪かったようですが、ご家族への連絡も、訪問支援側から一度に整理してできました」
試験導入が始まって、三日目。 私は朝から、結和ケアとの共有フォルダを何度も開いていた。 現場向け確認カード。 初回説明用資料。 家族向け説明文。 どれもまだ試験版だ。 完成ではない。 むしろ、ここから崩されるために出したものだと思っている。 そう思っていた。 思っていたけれど。『三行目の「地域連携室へつなぐ」が、具体的に誰へ連絡すればいいのか分かりにくいです』『配食スタッフの場合、対応したことを一つだけ残すと言われても、どこまでが対応に入るのか迷います』『家族へ連絡済みかどうかを確認できる欄がほしいです』『カードは見やすいですが、訪問支援と配食で同じ文言だと少し合わない気がします』 届いた意見を読んで、私は机に額をつけたくなった。 文句が出るとは聞いていた。 でも、実際に並ぶとなかなかの迫力がある。「琴葉、生きてる?」 朱音が隣から声をかけてきた。「文句に埋まってる」「仕事してるね」「もう少し優しい言い方をして」「改善材料に包まれてる」「包まれ方が重い」 私は顔を上げ、もう一度意見の一覧を見た。 きつい。 けれど、読んでいるうちに少しずつ分かってくる。 これは、ただ否定されているわけではない。 見たから出た文句だ。 使おうとしたから、引っかかった場所だ。 読まれていなければ、何も返ってこない。◇◇◇◇ 昼前、宮坂さんとの短いオンライン打ち合わせが入った。 画面越しの宮坂さんは、いつもの落ち着いた表情だった。「朝比奈さん、意見がいくつか出ていますね」「はい。かなり出ています」「いいことです」「いいこと、ですか」「はい」 宮坂さんは、少しだけ笑った。
結和ケアの現場向け説明会は、夕方に行われた。 訪問支援のスタッフが戻ってくる時間に合わせたため、会議室には少し疲れた空気が漂っている。 それでも、席はほとんど埋まっていた。 高梨さんが前方に座り、宮坂さんは少し後ろで全体を見ている。 私は配布用の資料を手に、深く息を吸った。 今日持ってきたのは、三種類。 初回説明用の一枚資料。 家族向けの説明文案。 そして、三行の確認カード。 前なら全部を一つにまとめていたと思う。 でも今は違う。 読む人が違えば、届く形も違う。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。鷹宮グループの朝比奈です」 私が頭を下げると、何人かが軽く会釈を返してくれた。 好意的な人もいる。 警戒している人もいる。 当然だと思った。 新しい仕組みは、現場にとっていつも歓迎されるものではない。「最初に、皆さんからいただいた言葉を一つ、そのまま使わせてください」 私は資料の一番上を示した。「利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です」 会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。 誰かが小さく頷いた。 高梨さんも、こちらを見ている。「この仕組みは記録を増やすためのものではありません。皆さんが気づいたことを、次に必要な人へつなぎやすくするためのものです。だから、試験導入では三つのことを先に約束したいと思っています」 私は指で一つずつ示した。「既存記録と同じ内容を、別の場所へ二重に書いていただく形にはしません。転記を前提にしません。迷った時の確認先を一本化します」 前列の男性スタッフが手を上げた。「でも結局、何かは書くんですよね」「はい」 私は頷いた。「ゼロにはできません。ただ、毎回全部を書く形にはしません。いつもと違うことがあった時だけ、対応したことを一つ残してくだ
会社へ戻ると、私はすぐに新しいファイルを開いた。 現場向け確認カード。 タイトルを打ち込んでから、指が止まる。 三行。 高梨さんは、そう言った。 現場で本当に見るのは、たぶん三行です、と。 資料を短くするだけなら、まだできる。 けれど三行にするとなると、話が違う。 説明を削るどころではない。 何を残すかを決めなければならない。 私は画面を見つめたまま、結和ケアで聞いた言葉を思い出した。 利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です。 その一文を、カードの上に置くか迷った。 大事な言葉だ。 でも、それだけで一行を使ってしまう。 現場が本当に見る三行に、理念を入れていいのか。 それとも、別の場所に置くべきなのか。 悩んだ末、私はカードの上部に小さく見出しとして入れることにした。『利用者さんを見る時間を守るために』 そして、三行を打つ。 一、いつもと違うことに気づいたら記録する。 二、対応したことを一つだけ残す。 三、迷ったら宮坂さんへつなぐ。 短い。 短すぎる気がする。 でも、訪問前後の慌ただしい時間に見るなら、これくらいでなければ目に入らないのかもしれない。「琴葉、何してるの?」 隣から朱音が覗き込んだ。「三行にしてる」「何を?」「仕事を」「俳句?」「確認カード」 朱音は画面を見て、眉を上げた。「短っ」「三行だから」「本当に三行だ」「三行って言われたから」「素直」「素直というより、これ以上あると見てもらえないんだって」 朱音は少し黙ってから、画面に目を戻した。「でも、分かりやすいよ。何をすればいいかは分かる」
修正した資料を結和ケアへ送ってから、二日後。 宮坂さんから連絡が入った。『現場の反応が出ました。良いものも、厳しいものもあります』 その一文を見た瞬間、背筋が伸びた。 良いものも。 厳しいものも。 どちらか片方ではないことに、少しだけ救われる。 けれど、次の打ち合わせで共有された内容は、思っていたよりも正直だった。「まず、現場向けの一枚資料については、前よりずっと読みやすいという声がありました」 宮坂さんが言った。 私は小さく息を吐く。「ありがとうございます」「ただし」 来た。 私はペンを握り直した。「これでもまだ、訪問前には読まないと思う、という意見もありました」「……はい」 予想していた。 でも、実際に聞くとやはり少し痛い。 高梨さんが補足する。「読めないというより、読むタイミングがないんです。朝は予定確認で埋まっていますし、訪問後は次の移動があります。資料を読むなら、訪問前後ではなく、最初の説明会で頭に入れる形の方が現実的です」「では、現場向け一枚資料は、日々確認するものではなく、初回説明用に近いですね」「はい。毎回見るものは、もっと短くないと無理です」「もっと短く」 私は思わず復唱した。 高梨さんは、少し申し訳なさそうに笑う。「すみません。でも、現場で本当に見るのは、たぶん三行です」「三行」「何を見たらいいか。どこに記録するか。迷ったら誰に聞くか」 私は手元の資料を見下ろした。 削ったつもりだった。 かなり削ったつもりだった。 それでも、まだ多い。 けれど不思議と、前ほど落ち込まなかった。 具体的に言われたからだ。 三行。 それなら直せる。「分かりました。現場向けの確認